今日は11月3日。宮沢賢治の代表作『雨ニモマケズ』が書かれた日です。また明治天皇の誕生日でもあります。
日本国民の多くが知っている、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」は、漢字とカタカナのみで書かれています。
なぜ漢字とカタカナなのでしょうか? 今回はその謎について迫ります。
漢字は「象形文字」だった
漢字は物の形をかたどって作られた「象形文字」がベースになっています。「人」「木」「山」「川」「鳥」などの漢字がどのようにできたか、見てみるとナルホドですね。
1文字で意味を表せる漢字
象形文字はその性質上、一文字で意味を持つ特徴があります。そして、いくつかの漢字を合体すると、新しい意味の文字を作ることができます。
たとえば「木」がたくさん集まって生えているところは、「木」をふたつ集めれば「林」に、三つ集めれば「森」という漢字になりますね。
「田」で働く人には「力」が必要なので、二つを合わせると「男」になります。力仕事は男の仕事ですもんね。
「おとこ」という漢字
「男」以外に「おとこ」を表すもう一つの漢字はご存知ですか?
それは「漢」って書きます。カッコいい響きで使いたい時に、この1文字が使われるのを見ることがありますね。
不名誉なのでは「痴漢」というのがあります。女の人でこれする人はいませんよね(笑) 男の人もやっちゃいけないんですよ!
でも、まぁとにかく「漢」という字は「男」を示すものになっている感じですね。なぜなんでしょう?
中国からやってきた漢字
むかしむかし、日本で人々が意思疎通をするのに言葉ができて、おしゃべりをするようになってから、しばらくの間はその言葉を記録する「文字」がありませんでした。記録ができないので「手紙」も存在しません。
そんな日本に文字がやってきたのは中国からでした。日本人はさっそく中国の漢字を使って自分の思いを紙に書いて伝えたり残したりし始めました。
日本語の話し言葉との壁
ところが、日本と中国のしゃべる言葉はそれぞれ違います。たとえば「山」は日本では「ヤマ」と言いますが、中国では「シャン」と言います。せっかく中国から文字が伝来したのですが、日本人の話し言葉をそのまま紙に記録するのに、どのように漢字を使ったらいいか困る部分があったのです。
そこで、よくある「夜露死苦」(ヨロシク)みたいに、漢字一文字の意味は全く無視して、漢字の発音を利用して話し言葉と同じになるように並べるという方法で使いました。
しかし、これではまだまだ不便ということで、ひらがなとカタカナが登場します。
ところが…
男はカタカナ、女はひらがな
詳細はよくわかりませんが、ひらがなはトレンディーな「女の子用」の文字として使用・認知されていたみたいです。
そして男性たちは「やっぱ、男は漢字だよな」といった世界観でした。というのも異国との積極的な交流において、外交の要は男だったからでしょう。
そういうわけで、漢字は「漢(おとこ)」のものという感覚があったのです。この漢字を日本の男たちが勉強したり使ったりしていく上で一緒に用いられたのがカタカナでした。
そういうわけで「ひらがなは女の文字」「カタカナは男の文字」といった傾向があったようです。
つまり宮沢賢治が漢字とカタカナのみで書き残した『雨ニモマケズ』は、「漢(おとこ)の文」ということになります。賢治は『雨ニモマケズ』に男らしさを追求したのでしょうか? もしそうだとしたら、それはなぜなんでしょうか?
農業は田んぼの力で「男」の仕事
宮沢賢治は農業の未来を真剣に考えている人でした。周囲の農民たちに、農業に必要な科学知識を教え、自らも田畑を耕し作物を育てていました。
田畑を耕すのは力仕事です。「田」+「力」=「男」から見ても、農作業は男の仕事だったと言えます。
雨が降ろうが、風が強かろうが、雪が降ろうが、暑かろうが、植物の理想的育成のためには怠けているわけにはいきません。季節は待ってはくれませんし、植物の育成タイミングも人の都合を待ってはくれません。
だから、宮沢賢治は「ジョウブナカラダ」が必要でした。賢治がこの『雨ニモマケズ』を書いた頃、彼は結核(肺炎?)に苦しんでいたんです。賢治の願いはとても切実なものだったはずです。
『雨ニモマケズ』にカタカナが多い理由は?
それにしても『雨ニモマケズ』の文章はカタカナの比率が圧倒的に多いですよね。これには賢治特有のトリックがあると私は考えています。これから、その考察をします。
ヒドリは日照りの間違い?
まず『雨ニモマケズ』でよく議論されるのが「ヒドリノトキハ」の部分。
「日照り」説
本当は「日照り」のことだろうと解釈され、「ひでり」で朗読されることが多いです。
「肥取り」説
でも「肥取り」ではないかという推測もされています。昔の農業現場では、肥料は牛などの糞から作られていました。農家には糞を貯め置く場所があり、そこで糞を熟成させて肥料に変えていくのです。この糞の山から肥料を取る際には、うんこそのものの匂いもあればアンモニアの刺激臭もあります。その匂いで目に刺激を受ければ涙も出ます。
「肥取りの時は涙を流し」かもしれないというわけです。
「日雇い」説
日雇い労働のことを「日取り」と言ったそうで、それではないかという説もあります。
農民は必ずしも自分自身が所有する土地で仕事をしていたとは限らず、地主の土地を雇われで耕すこともありました。
「一人」説
それから私は「一人の時は」がなまっているというようなイメージもうっすら湧くのです。
カタカナだから広がるイメージ
そうすると「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」という一文は様々なイメージが広がってきます。
私は、賢治はわざとそうしたのだと思っています。これは天才的な技だと私は思うんです。
もし「日照り」とか「肥取り」とか「日取り」と漢字で書いてしまったら、たった一つの意味に限定されて、様々なイメージに広がることがありません。
だから、そこはカタカナでなければならなかったのだと私は思います。
ジブンヲカンジョウニって?
「ジブンヲカンジョウニ入レズニ」も私は同じトリックがあるような気がしています。
一般的に、この詩では「勘定」の意が想像されることでしょう。しかし「決して怒らず いつも静かに笑っている」状況の後に述べられるこの「カンジョウ」は「感情」をも想起させる力を持っていると感じます。
「もっと儲けたい」「損はしたくない」という「感情」が「損得勘定」とつながるのだから。
【2018/11/07 追加】その他「時分を勘定に入れずに」だったらスゴイと思いませんか? その場合、時間をお金に変えようとする利子は取らないという意味にもなりますね! 宮沢賢治なら考えそうです。『時が富を生む魔術』は使わないようにしたいという意思立てに思えてきます。
おわりに
- 漢字は1文字で意味を持つ
- 漢字とカタカナは男用の文字だった
- カタカナにすることで一つの意味に限定されない
カタカナ表記にすることで、一つの言葉が様々な解釈を生み出す仕掛けは面白いですね。
宮沢賢治が生きていた頃、アインシュタインが来日しています。アインシュタインはこんな言葉を残しています。
ジョークについて言えることは、絵画や音楽についても言えます。論理的な企みではなく、見る人の位置によってさまざまな色にきらめく、人生の美しい断片が感じられなければなりません。もし、そういう曖昧さを脱したいのであれば、数学を始めることです。
(アルバート・アインシュタイン)
宮沢賢治はユーモアにもあふれている人でした。『飢餓陣営』『どんぐりと山猫』『月夜のでんしんばしら』など笑える描写が織り込まれた作品があります。賢治の猫の落書きも笑えますよ。
文学のみでなく絵画や音楽にも高い知識があった宮沢賢治は、『雨ニモマケズ』においても「見る人の位置によってさまざまな色にきらめく」トリックを見事に残していると私は思います。
農業の未来と平和な社会に命をかけた宮沢賢治が『雨ニモマケズ』の中で「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」と願いを立てたのは、どんな「男」「漢」の姿でしょうか? まだ知らない人は、一度読んでみてほしいです。
雨ニモマケズ 宮沢賢治
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩
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コメント
最近また雨にもまけずを口ずさむようになりました。でもどこかが間違ってしまいます。ユーチューブを検索していたらこのブログにたどり着きました。宮沢賢治は深くは知りません。でも雨にもまけずは心ひかれます。いろいろご教示くださりありがとうございます。わたくしはかんじょうは感情であると思っていました。しかし両方の意味があるのだと感じたところです。またヒドリは日照りがいいなあと思っています。ほとんどの朗読では最後の菩薩様のお名前を読まなかったり表記しませんがこれが大事なのではないかとも思っています。でもそれぞれの菩薩様に関する知識はわたくしにはありません。わたくしもそういうものになりたい。ひとではなくものなのですよね。ほんとうにすごいです。ありがとうございました。
コメントありがとうございます。多忙な日々で長らくコメントの承認遅れて申し訳ありませんでした。私も宮沢賢治さんを深くは知りません。数年前までは何の興味関心もなかったのですが、日本の歴史や文化について調べ始めたことで、激動期の日本の農耕と経済の中を生きた宮沢賢治の存在に魅かれるようになりました。「ヒドリ」は「寒さの夏」との絡みを考えると「日照り」の意が絶対的なベースとして存在しているだろうと、私も思っています。「日照り」と朗読されることがほとんどですし、「ヒドリ」は書き間違いと考える人もいるようです。宮沢賢治さんご自身が手帳に書いた原文には、いたるところに訂正の跡があるのに、「ヒドリ」のところには訂正がありません。細部に推敲の跡があるのに、日照りをヒドリと書き間違えたとは私はどうにも考えにくいと思っているので、「ヒドリ」という文字の中に日照りをベースに含む様々なイメージの想起を狙ったと考えています。「ひとではなくもの」ですか・・・なるほどそうですね。「サウイフヒト」とも書けるのに「モノ」ですね。「モノ」は「者」としか考えていませんでしたが、江部さんのご意見に触れて「者」だけではなく「物」の漢字もあるなぁと思い至りました。そうすると「物々しい」という言葉があるなぁとか(今調べてみたところ「重々しくきびしい」「大げさである」「容姿・態度などが堂々としている」「威厳がある」といった意味なんですね)、「人も物も大切にしなくちゃ」とか考えが広がりました。ありがとうございました ^^