「星めぐりの歌」は宮沢賢治が作詞作曲した歌です。たくさんの方に親しまれ歌われていますね。この歌は宮沢賢治の童話『双子の星』と『銀河鉄道の夜』に登場します。
文学作品を書き、歌も作り、絵も描き、芸術に親しみながら、農業と科学と宗教に生きた宮沢賢治は、どんな人だったのでしょう?
交響楽が好きだった宮沢賢治に寄せて、「星めぐりの歌」を交響楽をバックに歌い、『銀河鉄道の夜』の場面を交えたアニメーションを制作しました。その中で「星めぐりの歌」の歌詞の世界を再考します。
「星めぐりの歌」が誕生した舞台裏を推察することで、宮沢賢治の隠された素顔に迫ってみたいと思います。
これを元に宮沢賢治が様々に残した芸術作品や、そこに秘められた彼の心について興味を持っていただけたら嬉しく思います。
「星めぐりの歌」が作られた動機とは?
「星めぐりの歌」を作詞作曲した宮沢賢治は、自身もいい声でこの歌をうたったそうですが、彼はどんな時にどんな場所でこの歌を作ったのだろうと想像します。賢治の良き理解者だった妹のとし子が、初めて「星めぐりの歌」を聴いたのは、どんな時だったのだろうとも思います。
妹に贈られた兄妹の物語『双子の星』
名作童話『銀河鉄道の夜』の初稿執筆が1924年頃だそうですから、その時すでに妹とし子は亡くなっています(1922年没)。宮沢賢治の作る童話が大好きだった妹が「星めぐりの歌」に初めて出会ったのは、彼女が病に倒れ入院した1918年頃に創作された『双子の星』を読んでのことだったはずです。
『双子の星』は、天の川に住むチュンセとポーセのお話で、二人は「星めぐりの歌」に合わせて一晩中銀笛を吹くお役目がありました。チュンセとポーセは、サソリと大烏の大格闘をやめさせて平和と秩序を取り戻したかと思うと、次には彗星にだまされて海の底まで落ちたりの大冒険をくり広げます。
賢治は妹に元気になって欲しくて童話を書いていたかもしれません。家族と離れた別宅で、退屈で孤独がちな病床にいたとし子は、賢治が作り出した童話の世界に心躍らせたことでしょう。
「ねぇお兄ちゃん、この『星めぐりの歌』はどんなメロディーかしら?」と、とし子が口にしていたとしたら、賢治は彼女の耳も楽しませてあげたいと思ったかもしれません。
永訣のあと銀笛をひとり吹く賢治
妹とし子が病死した翌年1923年に賢治が書いたとされる「手紙 四」には次のように書かれています。
どなたか、ポーセがほんとうにどうなったか、知っているかたはありませんか。チュンセがさっぱりごはんもたべないで毎日考えてばかりいるのです。
ポーセはチュンセの小さな妹ですが、チュンセはいつもいじ悪ばかりしました。ポーセがせっかく植えて、水をかけた小さな桃の木になめくじをたけて置いたり、ポーセの靴に甲虫を飼つて、二月もそれをかくして置いたりしました。
(宮沢賢治 「手紙 四」より)
このことからも、チュンセは賢治の投影でポーセは妹とし子の投影だった可能性が高いと思います。小さな子供の頃なら誰でも身に覚えのあるような、仲良しだからこその兄弟喧嘩やいじ悪も、大人になって永遠の別れをしてみたら「どうしてあの時もっと優しくしなかったろう」と思ったのではないでしょうか。
そんな心を持つ賢治だから、いい大人になってからは、病床で孤独に闘う妹のために、彼女の命を救いたい一心で「星めぐりの歌」を本当の歌にしたのかもしれません。
そんなことごとを想像しながら私(輝野和昭)なりの「星めぐりの歌」を作りました。
兄と妹が再び奏でるために
たくさんの方が「星めぐりの歌」を歌っていて、傾向としては混声合唱や女性シンガーのものが目立つ印象です。それらの中に私のお気に入りもあるのですが、今回私が作りたかったのは宮沢賢治が妹とし子の耳に届けるものとして男性ヴォーカルの作品にしたかったからです。
宮沢賢治はベートーベンの真似をして写真を撮ったり、レコード鑑賞会を開いたり、楽団を作って自らチェロの演奏に挑戦するなど、交響楽が大好きでした。妹のとし子もバイオリンを嗜んでいました。
そんな二人に捧げるために、バイオリンとチェロを生かした交響楽的な「星めぐりの歌」に編曲し、広大な宇宙を銀河鉄道に乗って旅するイメージに仕上げました。
童話『双子の星』の中でチュンセ童子とポーセ童子がこの歌のために銀笛を吹くことになっているので、交響楽アレンジには後半より二本のフルートの音色も加わっています。
「星めぐりの歌」にのせて届け!
よく夜の野山を散歩したという賢治が、星を眺めながら歌うのを想像して制作しました。バイオリンが好きだった妹とし子が前奏を弾き、それに乗せて賢治が歌うという想定です。
間奏ではとし子のバイオリンとともに、歌を担当の賢治がチェロの演奏を披露してハーモニーを作り出すという設定にしています。そのシルエットをアニメーションにも織り込みました。
天にいつまでも輝く双子の星チュンセとポーセ、そして宮沢賢治と妹とし子に、この作品を届けたい! そんな思いで作りました。
ケンタウル祭の夜に独りたたずむジョバンニ少年と、その後ろで静かに寄り添う賢治のツーショットでスタート(ジョバンニ、君はほんとうは独りじゃないよ)。
ラストで横切る流れ星は、『銀河鉄道の夜』のカンパネルラでしょうか、あるいは『双子の星』のチュンセとポーセを乗せた彗星でしょうか。チュンセとポーセを乗せた彗星なら、このあとまだまだ二人の旅は続きますね。
これを見てくれた人が、宮沢賢治の作品や心に少しでも興味を持ってくれたら幸いです。
「星めぐりの歌」の歌詞は本当の星空の通り?
アニメーションは、この歌が登場する童話『銀河鉄道の夜』の場面もちょっと織り込みながら、できる限り「星めぐりの歌」の歌詞に添った景色を描くようにしました。
芸術の豊かさは現実に縛られない
とはいうものの、「星めぐりの歌」の歌詞は、実際の星空とは若干の違いが存在します。実際のさそり座の赤い星は目玉の位置になかったり、子犬座の青い星も目玉の位置ではありません。
けれども、賢治がこの歌を作った目的の根底に、妹や童話好きの子供たちの幸福を願う気持ちがあったならば、ガチガチに現実通りの表現にこだわるより、おとぎ話の世界へ誘う表現を目指したと思うのです。
もともと星座の英雄たちや動物たちも、すべては昔の人々の神話や伝説の豊かな想像から星空に描かれたものですから。
しかも歌にすると覚えやすいと言いますから、子供達がほんの少しでも星座の見方を覚えるきっかけになれば、教師だった賢治もとし子も「良い教材になる」と考えたかもしれません。
動画制作にあたっては「サソリの目、赤くない」「子犬の目、青くない」という違和感を出さないよう、星座の星々をつなぐ線はあえて描かず、星の強調もしませんでした。
広い宇宙をあっちこっち観測
また、歌の中に次々と出てくる星座は、一つの場所から全てを見るのは難しそうです。
だからアニメーションの中で子犬が初めて登場する時、子犬は画面を横切って通り過ぎてしまいます。その画面方角には子犬の帰る場所がないので。
その後、別方角で見えるオリオン座が示される時に、子犬はやっと居るべき子犬座の元へ定着します。
アンドロメダは銀河の魚の口
アンドロメダ星雲を魚の口の形と見た部分は「多分こんな見方だろうな」と私が感じた解釈で描きました。
魚の口の形と言われると、とっさには横から見た口の形をイメージすると思いますが、”Σ”の形を想像すると「どうして?」と思ってしまいますよね。
でも魚の口を真正面から開いてみると楕円形に近く見えます。また、その内側に見えるエラやアゴのひだが銀河の渦のように見えたのではと想像しました。
北極星は小熊座のおでこの上?
大熊座と小熊座と北極星(空のめぐりの目当て)の位置関係ですが、これも歌詞と実際が少し違う感じがしたので、ここはかなり悩みました。
「もしかすると宮沢賢治の歌詞と一致するような大熊と小熊の星座絵が、昔は存在したのでは?」という可能性も考えたのですが、それを探り出すような時間的余裕もなく、映像でどう表現するか、かなり迷いました。
結果は動画をご覧いただければ分かりますが、星空をぐるぐる回すことで、固定状態でじっくり眺めさせないという方法をとって、歌詞と現実の違いをぼかすようにしました。
また、大熊と小熊をメインに大きく扱わないようにして、夜空を飛ぶ鳥と、その鳥から離れて舞い落ちる羽根に視点を移すようにしました。この鳥は童話『銀河鉄道の夜』で手旗信号に合わせて行き交う鳥たちで、動画の間奏部分にも群れで飛んでいます。
羽根が落ちてくるのをカメラが追うことで、地上の光景へと戻ってくる映像にでき一石二鳥でした。
「雨ニモマケズ」とセットにした理由
私が制作した「星めぐりの歌」で、とし子のバイオリンと賢治のチェロが奏でる前奏&間奏のメロディーは、実は同時期に私が作曲した「雨ニモマケズ」のラストに登場するギターフレーズなんです。その直前のバックのストリングスもそうです。
「星めぐりの歌」と「雨ニモマケズ」を同じフレーズを用いて連作にしたのは理由があります。
大人の事情で封じられた南無妙法蓮華経
「雨ニモマケズ」は賢治の死後に発見された手帳に書いてあったもので、亡くなる2年ほど前に書かれた手記のようです。
宮沢賢治は熱心な仏教徒でしたから、手帳に書かれた「雨ニモマケズ」には最後のところに法華経のお題目が書かれています。このお題目があると「仏教信者のためのもの」と限定されてしまいそうなので、書物など一般公開の際にはこの部分が割愛されていたそうです。
ワカンナイ人の気持ちもわかるのよ
「ワカンナイ」は井上陽水による「雨ニモマケズ」へのアンサー・ソングです。
実は私、宮沢賢治のことをよく知るまでは、この「雨ニモマケズ」が好きではありませんでした。何も知らなかったので「有名人が安全な高みから偉そうに理想を言ってる」「いやぁ、自分には無理無理!」というくらいに、どこか皮肉にとらえていたところもありました。
でも、宮沢賢治がこの手記をメモ帳に書いた頃、賢治がどういう状況に置かれていたか、そしてそれまでの人生でどんなことごとがあったのかを調べていくにつけ、彼がどれほど様々なことをグッと堪えてきたかと想像されて涙が出るようになっていました。(それについてはまた別の機会に書きたいと思っています)
門井慶喜作『銀河鉄道の父』も読んでみて、これがまた直木賞受賞も納得の感動作品だったのですが、この本のラスト近くに『雨ニモマケズ』と『銀河鉄道の夜』の文章が登場します。宮沢賢治を息子にもった父の視点から描いた作品で、賢治が亡くなった後の場面でこの二つの遺作が登場します。
『銀河鉄道の父』では「雨ニモマケズ」の全文紹介の後にこう続きます。
孫たちは全員、つまらなそうな顔をしている。おのれを律せよ、りっぱな人間になれというような修身道徳をおしつけられたと思ったのだろう。
(門井慶喜作『銀河鉄道の父』より)
私も以前はこの記述と同じ感覚だったわけです。けれどもそのあと賢治の父が、孫たちにこう語っています。
雨にも負けず、風にも負けずなんて見るからに修身じみた文ではじまって、誰も文句のつけようがない立派なおこないばかり書きつらねたと思ったら、最後のところで『私はなりたい』。なーんだ、現実にそういう人がいるって話じゃなかったのか。ただの夢じゃないか。こっちは拍子抜けってわけだなハ
(門井慶喜作『銀河鉄道の父』より)
「ことばで遊んでただけ」「いたずら書きしてただけ」というわけです。
このあと『銀河鉄道の夜』の朗読を始めると、孫たちは頬をきらきら光らせて興味を持って聞き入ります。
なーんだ、現実にそういう人が・・・
しかしながら「雨ニモマケズ」には斉藤宗次郎という実在のモデルがいるという話もあります。いずれにせよ、少なくとも宮沢賢治自身は、この理想像に自分はまだ届いていないと思うからこそ「そういう者に私はなりたい」と書いたことは間違いないと思います。
賢治は上の立場から下々に道徳を説いたのではなく、下段の位置から理想像を見上げて自分自身に言い聞かせていたと思いました。病気になっても重いカバンを抱えて、未来を良くするために営業に回り、心が迷うと手帳に書いた「雨ニモマケズ」を確認していたのではないかと、私は思ったのです。
私は『銀河鉄道の父』での「雨ニモマケズ」の捉え方も好きなんですが、賢治が当時置かれていたシリアスな状況と、割愛されることの多い法華経のお題目のことを考えると、賢治は真面目にこの理想像を指針とした…というかこのメモを自分への戒めとした気がしてならないのです。
宮沢賢治の童話に描かれるエゴからの解放
で、いろんな参考資料に触れるうちに、宮沢賢治の童話は基本的に仏教思想を子供にもわかりやすく伝える意図があったと感じるようになりました。違っていても、親の代から熱心な仏教徒の家庭ですから、それが作品に何の影響も及ぼさないことはないと思います。
私自身は「他人のことも大切に考えたいけど、自分自身も差別しないで大切にしたい」と思っているので、「ジブンヲカンジョウニ入レズニ」は難しいです。賢治は理想を目指して、無理しすぎて死期を早めた気がしてなりません。
けれど、宮沢賢治という男がこの理想を胸にしていたことは、童話『銀河鉄道の夜』におけるカンパネルラの自己犠牲や『グスコーブドリの伝記』におけるブドリの自己犠牲からも見えてきます。
「雨ニモマケズ」の精神は宮沢賢治の童話の中にもちりばめられている、というかその精神なしに宮沢賢治の童話は存在し得なかったのではと思うのです。
私たちの現実社会は、誰かの生活や命を守るために自分たちの命を犠牲にするしかなかった人々の歴史の上にあります。それがなかったらこの世に生まれてこなかったのは、あなたかもしれないし私かもしれない。
少なくとも、犠牲を払った人への敬意と感謝を私は持ちたいと思いました。
だからきちんと法華経のお題目まで含めて歌にして、敬意を持って献上したいと思ったのです。この歌も宮沢賢治の魂の元に一緒に届いたら幸いです。
「雨ニモマケズ」は強く優しい人々への応援歌です!
そして私の作った「雨ニモマケズ」の歌は、あちこちにいるであろう隠れたスーパーマンたちに聴いて欲しいと思っています。それは、決して悪と戦うという意味ではなく、人々の困りごとの解決のために、人々が足りないものを手にするために、苦しいことがあっても笑顔を絶やさず、日々行動している強く優しい心の人々のことです。
宮沢賢治が願ったこと
宮沢賢治が生前に出版した二冊のうちの一冊『注文の多い料理店』には、序文の最後に、大正十二年十二月二十日の日付で次のように記されています。
わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまひ、あなたのすきとほったほんたうのたべものになることを、どんなにねがふかわかりません。
大正十二年十二月二十日 宮沢賢治
透き通った本当の食べ物とは、どういう意味でしょう?
栄養補給が必要なのはカラダだけ?
食べ物とは、命を維持するために絶対必要なものです。では食べ物が手に入れば、人は問題なく生きていけるでしょうか。
おなかが満たされても、問題を抱え心が苦しんでいたり、病気に苦しんでいたら、生きるのはしんどいです。
ときには、心に栄養を与えたり、生きる知恵や工夫を増やしたりすることも、人間には必要だと思います。その栄養はおなかを満たさず、目にも見えませんが、おなかを満たす食べ物より命に関わることがあります。
とくに戦争で殺し合う時代を体験した人の文章であることは、私にとって命を維持するための本当の食べ物が何であるかを知るきっかけとなりました。
透き通った本当の食べ物とは、食料や生活必需品を生産する知識を身につけたり、病気その他の問題を解決出来る手段を学んだり、貪欲になって奪い合いをしない心の豊かさを育むことなのではないでしょうか。
ほんとうのたべものをいただいたお礼
宮沢賢治様、あなたの願いは私の元にも届きました。あなたが書いた多くの物語が、私の心の栄養になったり、知恵やヒントになったりしています。
『銀河鉄道の夜』(旧版)では、カンパネルラがいなくなってジョバンニが泣き出した時、突然姿を現したブルカニロ博士が「おまへがあふどんなひとでもみんな何べんもおまへといっしょに苹果をたべたり汽車に乗ったりしたのだ。」と語っています。これは輪廻転生のことなのか、それとも時空を超越した科学的理論なのか、私にはまだわかりません。
けれども、ブルカニロ博士が言う通りなら、私がここから発信するものが、どこかであなたの耳に届くことがあると信じています。
あなたのたくさんの物語の中に浮かび上がる様々な人の心模様や生活の知恵が、私の中で心の肉になっています。透き通った本当のたべものをいただいたお礼に、作品を捧げたく制作しました。
あとがき
- 「星めぐりの歌」は病床の妹とし子への賢治手作りの贈り物
- 「星めぐりの歌」の歌詞は、実際の星座の状況と少しだけ違う
- 宮沢賢治の文学には仏教の心が流れている
- 宮沢賢治は童話が人々の心の糧と知恵になることを願った
あまりよく知らない頃は、宮沢賢治をとてもストイックで真面目な方だとばかり想像していましたが、子供の頃は普通にいたずらやいじ悪もしていたと見受けられる側面が意外でした。
そこから大きな優しさを目指す大人へと成長していく過程には、家族を含む様々な人たちとの葛藤や出会いと別れがありました。
もとはお金持ちの家のボンボンだったのですから、長男の賢治は世間から嫉妬や誤解も様々に受けたことだろうと私は思います。
そんな彼が「星めぐりの歌」を作った背景には、自分を最も理解してくれる妹とし子への深い愛情と感謝が原動力にあったのではないかと思います。
そう考えると、妹とし子の存在がなかったら、賢治の童話も歌も作られるきっかけがなく、この世に存在しなかったかもしれません。
「星めぐりの歌」の歌詞は、ちょっとだけ実際の星座の様子と異なりますが、歌を覚えておくと星座を見つける参考になりそうですね。
宮沢賢治が、童話や歌に込めた愛情は、妹だけではなく多くの人々に受け継がれていくことを願っていたのではないでしょうか。飢饉と戦争の時代を生きた賢治が心の奥で究極に願っていたことは、もしかすると、この星から戦争が消えてなくなることだったかもしれません。
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