前記事の続きです↓
宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』にはいくつかのバージョンがあります。
大別すると、ブルカニロ博士が登場するバージョンと登場しないバージョンがあります。
一般的に知られているのはブルカニロ博士が登場しない物語です。
一般普及のバージョンを読んで私は衝撃を受けたのですが、そのすぐ後にブルカニロ博士が登場する旧版を読んで、またまた衝撃を受けたのでした。
物語の出来としては、ブルカニロ博士が登場しないバージョンの方が読み応えがあると思っています。というのは、ブルカニロ博士登場版は、この博士があまりにも超人的で万能な感じなので、その力で主人公に訪れる幸福なラストは特殊すぎて一般人にはめぐり来ることのないものと感じてしまったからです。
それでも私にとって十分に衝撃的だったのは、級友カンパネルラが姿を消した後に替わって姿を現すブルカニロ博士が、とても壮大な視点の歴史と宇宙を語ったからです。
ここからはネタバレしますので、『銀河鉄道の夜』(旧版)を読みたい方はご注意!
私が衝撃を受けたのは以下の部分です↓
ちよつとこの本をごらん。いいかい。これは地理と歴史の辭典だよ。この本のこの頁はね、紀元前二千二百年の地理と歴史が書いてある。よくごらん、紀元前二千二百年のことでないよ。紀元前二千二百年のころにみんなが考へてゐた地理と歴史といふものが書いてある。
だからこの頁一つが一册の地歴の本にあたるんだ。いいかい、そしてこの中に書いてあることは紀元前二千二百年ころにはたいてい本當だ。さがすと證據もぞくぞくと出てゐる。けれどもそれが少しどうかなと斯う考へだしてごらん、そら、それは次の頁だよ。
紀元前一千年。だいぶ地理も歴史も變つてるだらう。このときには斯うなのだ。變な顏してはいけない。ぼくたちはぼくたちのからだだつて考へだつて、天の川だつて汽車だつて歴史だつて、たださう感じてゐるだけなんだから、そらごらん、ぼくといつしよにすこしこころもちをしづかにしてごらん。いいか。」
そのひとは指を一本あげてしづかにそれをおろしました。
するといきなりジヨバンニは自分といふものがじぶんの考へといふものが、汽車やその學者や天の川やみんないつしよにぽかつと光つて、しいんとなくなつてぽかつとともつてまたなくなつて、そしてその一つがぽかつとともるとあらゆる廣い世界ががらんとひらけ、あらゆる歴史がそなはり、すつと消えるともうがらんとしたただもうそれつきりになつてしまふのを見ました。
だんだんそれが早くなつて、まもなくすつかりもとのとほりになりました。
「さあいいか。だからおまへの實驗はこのきれぎれの考へのはじめから終りすべてにわたるやうでなければいけない。それがむづかしいことなのだ。けれども、もちろんそのときだけのでもいいのだ。ああごらん、あすこにプレシオスが見える。おまへはあのプレシオスの鎖を解かなければならない。」
そのときまつくらな地平線の向うから青じろいのろしがまるでひるまのやうにうちあげられ、汽車の中はすつかり明るくなりました。
そしてのろしは高くそらにかかつて光りつづけました。
「ああマジエランの星雲だ。さあもうきつと僕は僕のために、僕のお母さんのために、カムパネルラのために、みんなのために、ほんたうのほんたうの幸福をさがすぞ。」
ジヨバンニは唇を噛んで、そのいちばん幸福なそのひとのために、そのマジエランの星雲をのぞんで立ちました。
「さあ、切符をしつかり持つておいで。お前はもう夢の鐵道の中でなしに本當の世界の火やはげしい波の中を大股にまつすぐに歩いて行かなければいけない。天の川のなかでたつた一つのほんたうのその切符を決しておまへはなくしてはいけない。」
私は歴史と宗教と戦争や支配について調べ始めていた時期だったので、この記述には胸がわくわくしました。
そもそも「紀元前」「紀元後」とは何を境(起点)にした尺なのでしょう?
これはイエス・キリストの誕生を境にしているんですね。
つまり上の抜粋に述べられている紀元前二千二百年とは、イエス・キリストがこの世界に登場する2千年以上も前の歴史のことなんです。
その頃はキリスト教などなかったはずですが、ではその当時の西洋の人々の宗教観はどうだったのか…?
そういうことを調べ始めていたんです。
だから、宮沢賢治がこのような歴史考察を持っていたことにワクワクしたのです。
そして、これを読んだ時すぐに私の記憶から引き出されてきたのは、ミヒャエル・エンデの童話『モモ』でした!
主人公の少女モモが時間を司るマイスター・ホラの元にたどり着いた時、そこでモモが語り聞かせられ見せられるものとソックリだったのです。
それに、両方の話に大きな振り子が登場します。
私はどちらが先なのかすぐに調べました。
そしたら宮沢賢治の方が先だったのです!
そしてもう一つビビビッと繋がったのが「プレシオス」の登場!
プレシオスというのはプレアデス星(団)のことですが、コレ、スピリチュアル系や宇宙人話によく登場するんです。エンリケ・バリオスの『アミ 小さな宇宙人』という本にも出てきます。
プレアデス星人は地球よりもずっと文明や考え方が発達しており、戦争や諍いがないと言われています。とても平和な世界なんですね。
そのプレアデスから生まれ変わって地球に来ている人たちがいるという話があったりします。その人たちは地球に平和をもたらすことをミッションにしているとか。とくに日本はプレアデス星と関係が深いなんて話もあります。(私はそのあたりの話には詳しくないので、知りたい方はググってみてください)
で、ミヒャエル・エンデの『モモ』ですが、これがどういう話かというと、人々から時間を奪う「灰色の男たち」から、少女モモが人々に時間を取り戻してあげる話なんです。
「灰色の男たち」というのは「時間貯蓄銀行」に勤める人を筆頭にさまざまな職業の人々。そいつらがさまざまな手段で他人から時間を奪うのです。
どうです? これってあながち子供向けのおとぎ話ではなく大人の世界の現実に思えませんか?
この『モモ』という物語、同作家の『ネバーエンディング・ストーリー』ほどではないものの、ちょっとした入れ子構造になっていて、物語は汽車の中で大人が大人に語り聞かせているものなんです。
お金の価値、時間の価値、人の生き方などなどが問い直され始めている今の時代だからこそ、時間や余裕を見失っている方は、ぜひ一度ミヒャエル・エンデの『モモ』に触れてみるのもいいかもしれません。
さて『銀河鉄道の夜』に話を戻しまして、このブルカニロ博士は、博士というだけあって科学的な発言をする人物です。
これが科学大好き少年にはたまらない!
ブルカニロ博士登場の『銀河鉄道の夜』はとってもSF色があります。
主人公ジョバンニが銀河鉄道に乗り込む前あたりから、ブルカニロ博士の科学知識が披露されますが、世の中のあらゆるものが一つのエネルギーから成り立っていて、それがあらゆるものに姿を変えることを教えてくれます。
(ひかりといふものは、ひとるのエネルギーだよ。お菓子や三角標も、みんないろいろに組みあげられたエネルギーが、またいろいろに組みあげられてできてゐる。だから規則さへさうならば、ひかりがお菓子になることもあるのだ。たゞおまへは、いままでそんな規則のとこに居なかっただけだ。ここらはまるで約束がちがふからな。)
光って面白い性質をしているんですよね。粒子としての性質も持っていれば、波形としての性質も持っている。
1秒間で地球を7回半も回る超スピードの持ち主。1秒に地球を7回半回るバイクを想像してみてください。それにぶつかったら死んじゃいますよね。
というか、そのバイク、空気抵抗の摩擦やらで焼けちゃいそうです。
なのにそれが光なら問題なし。
私が小学生や中学生の頃は、宇宙は真空みたいに教わりました。だから、何にもないところを太陽の光は地球に素通りしてくると教わりました。
何をも伝道せずに素通りしてくると…。
真空のガラス球の中に風車のようなものが入っていて、それに光を当てると回るのも見せてもらったことがあります。
真空の中を光が通って風車の羽根に当たるから回るんだと教えられました。(正確には真空ではなく空気が残っていて、光が羽付近の空気の分子を活発にするから回るそうだ。)
でも不思議でしょう? 真空だというその中に「光」は存在して風車を動かしてるんです。
こういう「光」とか「電波」とかの正体って何なんでしょうね?
「それは波だよ」と言えば「何が波になってるの?」という話になるし、「超微粒子のつぶが波になってるんだよ」とすれば「その粒はどれくらいの大きさで、他にはどんな物質に入ってたりするの?」となってきます。
この辺りはもう難しい物理科学系の内容になってくるので興味のある方は勉強してちょんまげ。
この宇宙全体を司っているものの正体をずっと追い求めていた実在の科学者がいます。
かの有名なアルバート・アインシュタインです。
彼は宮沢賢治が存命中に日本に来ているんですね。好奇心旺盛な宮沢賢治のことだから、アインシュタインの来日はきっと影響を与えていることでしょう。
そのアインシュタインさん、晩年になぞのメモを残して放浪したみたいなんです。彼はどうしても知りたい宇宙の謎を解き明かそうとしていたのです。
その彼の足取りをたどってみたところ、中国で当時羊飼いの少年だった男に接触することができたんだそうです。
羊飼いの男はアインシュタインと何を話したのか…???
この続きはまた後日に
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