「雨ニモマケズ」のプロローグ
宮沢賢治が農民たちのために無償で肥料相談や土壌改良の講演をしていた頃、岩手の酸性土壌を改善するのに必要だった石灰は東北砕石工場から供給されていました。
この縁が元で、病気療養中の宮沢賢治を東北砕石工場の工場長が訪ねたところ、二人は意気投合する間柄となります。工場長の人柄に惚れ込んだ賢治は、体調が回復するとみんなの幸福と豊かさを目指して、壁材ブロックをも詰め込んだ重いカバンを手に営業に駆け巡るようになりました。
ところが約2年半後、賢治の体調は再び悪化してしまいます。夢半ばにして病に倒れたその時期に「雨ニモマケズ」は書かれたとされています。それは賢治の死後、愛用のカバンから発見された手帳に書かれていたものでした。
手記の日付は11月3日、偶然か否かそれは明治天皇の誕生日である天長節の日でした。国の皇帝の誕生を祝うその日、昔は男のための文字とされていたカタカナで書かれた『雨ニモマケズ』。そこに「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」と願いをたてた、そのまっ先に賢治が祈ったのは、「丈夫ナカラダ」を持つことでした。
私は先日「雨ニモマケズ」の中の人物はスーパーマンのようだと書きました。
実は「雨ニモマケズ」の中に描かれる人物像には実在のモデルがいたという話があります。
斉藤宗次郎という方です。斉藤さんだぞ。
彼はどんな人物だったのでしょう? 今回はその斉藤宗次郎という人物像とともに宗教と歴史の観点から「雨ニモマケズ」に込められた裏側を探りたいと思います。
仏教とキリスト教から見る「雨ニモマケズ」
斉藤宗次郎は宮沢賢治と同じ岩手の花巻の方でした。禅宗のお寺の三男として生まれ、岩手師範学校で学び、在学中はどちらかというと反キリスト教的な書物に親しんでいたそうです。
しかし入院中に読んだ聖書をきっかけに、花巻市で最初のクリスチャンとなったそうです。
周囲の誰もやらないことを最初に始める人というのは、先人の通った道がないのでイバラの道だったりすることが多いと思います。斉藤宗次郎がクリスチャンになった時も、その後の人生は大変苦しい道のりだったようです。
命がけの祈り
宮沢賢治と斉藤宗次郎は、信じる宗教を越えて親交があったようです。
宮沢賢治は仏教徒でした。だから手帳に記された「雨ニモマケズ」の最後にも南無妙法蓮華経のお題目が書かれています。
キリスト教にしろ仏教にしろ宗派がいろいろと別れているようで、考え方や信じ方が様々なようですが、それは後ほど触れるとして…
宮沢賢治や斉藤宗次郎が生きた時代は、明治時代から大正時代を経て昭和初期まで。スペイン風邪が世界のあちこちで猛威をふるったり、第一次世界大戦という歴史上初めての大きな国際戦争の動乱があった時代を生きた人たちです。
戦争は国や国民の存亡に関わる命の問題ですが、病気もまた同じく命の問題。しかも農業は安定せず飢饉が襲ったりもしていました。
宮沢賢治の童話『グスコーブドリの伝記』では、飢饉の様子が次のように描かれています。
畑にはたいせつにしまっておいた種も播かれましたが、その年もまたすっかり前の年のとおりでした。そして秋になると、とうとうほんとうの饑饉になってしまいました。もうそのころは学校へ来るこどももまるでありませんでした。ブドリのおとうさんもおかあさんも、すっかり仕事をやめていました。そしてたびたび心配そうに相談しては、かわるがわる町へ出て行って、やっとすこしばかりの黍の粒など持って帰ることもあれば、なんにも持たずに顔いろを悪くして帰ってくることもありました。そしてみんなは、こならの実や、葛やわらびの根や、木の柔らかな皮やいろんなものをたべて、その冬をすごしました。
けれども春が来たころは、おとうさんもおかあさんも、何かひどい病気のようでした。
ある日おとうさんは、じっと頭をかかえて、いつまでもいつまでも考えていましたが、にわかに起きあがって、
「おれは森へ行って遊んでくるぞ。」と言いながら、よろよろ家を出て行きましたが、まっくらになっても帰って来ませんでした。二人がおかあさんに、おとうさんはどうしたろうときいても、おかあさんはだまって二人の顔を見ているばかりでした。
次の日の晩方になって、森がもう黒く見えるころ、おかあさんはにわかに立って、炉に榾をたくさんくべて家じゅうすっかり明るくしました。それから、わたしはおとうさんをさがしに行くから、お前たちはうちにいてあの戸棚にある粉を二人ですこしずつたべなさいと言って、やっぱりよろよろ家を出て行きました。(宮沢賢治作 『グスコーブドリの伝記』より)
当時の日本には安全に健やかに生きていくのを阻む問題がたくさんありました。『グスコーブドリの伝記』では、この後に病害虫の被害でも大きな運命に翻弄される主人公が描かれていきます。
歴史研究をしているご年配の方数名から、明治大正時代近辺の食糧事情についてお話を伺ったところ、ひどい場合には共食いもあっただろうと聞かされました。
私が小学生の頃、何かのテレビドラマで、食べるものがなくなった人がコオロギを捕まえて食べるシーンがあったことを思い出しました。
日本にはイナゴの佃煮というものがありますが、こうしたものも、もしかすると食糧難だった頃に貴重なタンパク源を確保する日本人の知恵の名残なのかもしれません。
「苦しい時の神頼み」なんて言葉もありますが、頼る先のない問題に苦しむとき、人々が神に祈りを捧げてきたのは、多くの人が知るところでしょう。
大昔には日照りが続くと「雨乞い」をしたのも神への祈りでした。世界のあちこちで生贄や人柱という代償を神に捧げたりもするほど、宗教は命と密接に関係していた側面があります。
キリスト教と日本と斉藤宗次郎
賢治と宗次郎が生きた時代、キリスト教は「ヤソ教」「国賊」と呼ばれていたんだそうです。歴史の流れをたどってみると、それも仕方のないことで、少なくとも江戸時代頃にはキリスト教を利用した日本の侵略が試みられていたようです。
「踏み絵」のことは教科書でも習うと思いますが、そこまでして日本がキリスト教を排除したのは、それなりの理由があったからです。
日本人による日本人隠れキリシタンの弾圧ばかりにとらわれては「木を見て森を見ず」になってしまいます。当時のキリスト教宣教師は、ある時はスパイであり、時には日本人を海外へ連れ去って売買していた歴史があるようです。
少なくとも、キリスト教を正義として押し付けアメリカ大陸のネイティブ・アメリカン(インディアン)を虐殺し侵略した歴史も、アフリカの人々をさらって奴隷にしたことも、今では周知の事実でしょう。
他の宗教もですが、キリスト教にはキリスト教の影の歴史があります。近ごろ映画化された遠藤周作原作の『沈黙』も、イッセー尾形演じる大名を醜く描き通していますが、日本の醜い部分のみを強調した映画になっていると感じました。(私的には、同国民を殺す大名も、後から海外より入ってきて神を独占しようとかき回す方も、どっちも好きにはなれませんでした)
これはキリスト教自体が悪いのではなく、宗教を利用して国や人を侵略・支配しようとする存在が問題なんですね。けれど、いずれにせよ宗教に絡んで無駄に人の命が危険にさらされると、関わりたくないと思うのはごく自然な感覚だろうと思います。
ですから、キリスト教徒となった斉藤宗次郎は周囲の人々から散々な仕打ちを受けることになりました。
存在を無視されたり後ろ指さされたりなんてなまやさしいものではなく、家を破壊され9歳の娘を撲殺されているようです。
それでも斉藤宗次郎は愛に生きようとし続けました。
斉藤宗次郎は内村鑑三という無教会主義のキリスト教思想家に師事していて、無教会主義はそれまでの教会による権威に追従するのではなく、ひとりひとりが直接神とつながることを理想としたようです。
仏教と日本と宮沢賢治
一方の宮沢賢治は仏教徒なのですが、キリスト教にいくつかの宗派があるように、仏教も宗派が分かれています。賢治の家庭はもともと父親が熱心な仏教信者だったのですが、賢治は父の宗派には馴染まず国柱会という宗派に入信します。
賢治が父の信じる宗派に馴染まなかったのは、簡単に言うと ”ただ御経を唱えていれば誰でも極楽浄土へ行けるなんておかしい” という疑問があったからです。
賢治は一時期、父に対して熱心に改宗を求めていた時期があるようです。親友の保坂嘉内にも国柱会を勧めて親交にひびが生じました。
調べても調べても答えが見つからないので、ここから述べることは私の推論なのですが、戦争に巻き込まれた時代を生きた賢治が本当に信じられるものを探す中で、国柱会という名には自己の中に渦巻く矛盾を解放してくれる部分があったのではないかと思うんです。
”柱” というのは神様のことです。仏教というのは仏様を信仰しているのですが…。つまり「国柱会」という名は、国の神様の会です。仏様を拝むと同時に国の神様を祀る教会ということでしょう。
宮沢賢治は、この日本という国の未来について真剣に祈ろうとしていたのだと私は思います。
日本伝統の八百万の神々とイスラエルの神
日本に仏教が入ってくる前、日本は神道の国でその土地その土地の八百万(やおよろず)の神様が祀られていました。もちろん今でもそうです。そして、その神様のお姿というのは実際に見ることはできないものだったんですね。
そこにインドから大陸を経て変遷していった仏教が、金ピカのゴージャスなお姿を持った仏様を拝む新しい宗教としてやってきたのです。
その宗教が入ってきてから、日本国内ではちょっとした宗教の対立があったようです。けれど最終的には “神仏習合” という具合に落ち着いた経緯があります。
そこにキリスト教もやってきて、日本は神道、仏教、キリスト教の三つ巴。
このキリスト教なんですが、すごく浅いところで大きく分けてしまうと、偶像を持つものと偶像崇拝を禁止するものがあります。
教会に行ってそこにマリア様やキリスト像や十字架があったら、それは目に見える象徴を神様の代表として拝んでいることになります。
教会にそうしたものが全くないところは、偶像崇拝をしていない宗派。
キリスト様が歴史に登場するずっと前、モーゼという人が神様からのお告げを石板にお受けした “十戒” というものがあります。
10の戒め(いましめ)が記されたものなんですが、そこにはこんな一文が刻まれました。
Thou shalt not make unto thee any graven image
自分のために偶像を作ってはならぬ
*念のため、石板に刻まれたのはもちろん日本語でもなければ、英語でもありません。
これ、私は解釈に困惑するのですが、自分自身の像を刻んではならないのか、それとも自分が祈るために何者かの像を刻んではならないのか、そこがわかりません。けれども出エジプト記によるとこんな感じになっています。
あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。・・どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。
やはり偶像崇拝を禁止しています。
だからイエス様が登場する前の聖書の教えは、イエス・キリスト信仰ではないのです。この宗教観でも、日本の神道と同じく、神様の正体は形がなく目には見えないものでした。
神を奪い合う争い
そこにイエス・キリストが登場して言いました。
私を通してでなければ神の御元には行けない
さあ大変です!
それまでの聖書の神の教えの解釈を混乱させていくことになります。
それまでの司祭たちはプンプン! 「お前なぁ、何の権限があって神様への道を独り占めしてんだよぉ」と怒るのも無理もないような…
しかしイエス・キリストを十字架にはりつけて「なんで神様はお前を助けないの?」と殺すところまでやってしまっては、もうそんな司祭様も私は信じません。
いつも思うのですが、悪いのは宗教そのものではなく、それを扱う人間の姿勢の問題なんだと思います。
宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』ではタイタニック号の犠牲者とジョバンニが “本当の神様” について論争をする場面があります。
「天上へなんか行かなくたっていいじゃないか。ぼくたちここで天上よりももっといいとこをこさえなけぁいけないって僕の先生が云ったよ。」
「だっておっ母さんも行ってらっしゃるしそれに神さまが仰っしゃるんだわ。」
「そんな神さまうその神さまだい。」
「あなたの神さまうその神さまよ。」
「そうじゃないよ。」
「あなたの神さまってどんな神さまですか。」青年は笑いながら云いました。
「ぼくほんとうはよく知りません、けれどもそんなんでなしにほんとうのたった一人の神さまです。」
「ほんとうの神さまはもちろんたった一人です。」
「ああ、そんなんでなしにたったひとりのほんとうのほんとうの神さまです。」
「だからそうじゃありませんか。わたくしはあなた方がいまにそのほんとうの神さまの前にわたくしたちとお会いになることを祈ります。」青年はつつましく両手を組みました。女の子もちょうどその通りにしました。みんなほんとうに別れが惜しそうでその顔いろも少し青ざめて見えました。ジョバンニはあぶなく声をあげて泣き出そうとしました。(宮沢賢治作 『銀河鉄道の夜』より)
賢治は「たった一人の本当の神様」というものを奪い合う争いの中で、本当に信じるべき神とは何かを追求していたんじゃないかなと私は感じます。
ブルカニロ博士が登場するもう一つの『銀河鉄道の夜』のストーリーでは、ブルカニロ博士が次のようにジョバンニに語ります。
みんながめいめいじぶんの神さまがほんたうの神さまだといふだらう。けれどもお互ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだらう。それからぼくたちの心がいゝとかわるいとか議論するだらう。そして勝負がつかないだらう。
(宮沢賢治作 『銀河鉄道の夜』旧版より)
すべての人が、どうすればそれぞれに違う「唯一の神」をめぐって敵と仲間を分けることをしなくなるか、それが宮沢賢治が自分の中に密かに課した課題だったかもしれません。
神の国を愛して睨まれた男たち
1904年〜1905年 宮沢賢治が9歳か10歳の頃、日露戦争がありました。
1914年〜1918年 宮沢賢治が18歳から22歳くらいの間には第一次世界大戦。
当時、日本は「大日本帝国」という国でした。「日本」という国の名は「ひのもとつくに」からきています。日の本(ひのもと)の国、つまり太陽の国。天照大神(太陽神)が降りてきた神々の国とされていたのです。
宮沢賢治は小さな子供の頃に大病を患い、それは彼の肺を内側から侵食。その名残はいつまでも尾を引き、成人した彼の体躯は戦力としての価値を認められず、兵役免除。
明治天皇の誕生日に記された「雨ニモマケズ」の冒頭にあるもの…
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
(宮沢賢治作 「雨ニモマケズ」より)
この切望は、こんな歴史背景の中にこそ生まれ得たのかもしれません。
戦力外となった自分の命を国民のためにどう使っていくか、宮沢賢治の隠された苦悩を私は禁じ得ません。
同じ人間同士が殺し合う”戦争”という動乱に巻き込まれた中で、兵士という形ではなくとも、参戦すれば人殺しのお手伝い。かといって黙って何もしなければ侵略と支配が待っているというジレンマ。
「国は滅ぼされたくない、護りたい。でもそれは誰が本当の神様だとか偉いとか、独占したり競ったり争ったりするのではなく、助け合い、愛を与え合うことでありたい」
そういう願いが賢治を国柱会へと導いたのではないかと私は思うのです。
斉藤宗次郎は非戦論を唱えていますし、宮沢賢治は農学校にて「飢餓陣営」なる劇を創作披露しているように、やはり反戦と生産性向上の意識が高い人物です。
そのため、両者とも戦争へ突き進む国家の中にあって、県当局から睨まれて職を失ったり様々な周囲の圧力を受けたようです。
「雨ニモマケズ」に宿る賢治と宗次郎の魂
さて日本人の宗教観ですが、正月は神社に参拝、お葬式ではお寺のお坊さん、結婚式では教会の神父さんという具合に、一般的にはどっぷり何か一つの宗教に固執しない方が大半だと思います。
ある講演会で、会場の聴衆にこんな質問をした講師の先生がいました。
「日本で一番根強い宗教が何かご存知ですか?」
誰も答えません。
しばらく沈黙が続いたあと、講師の先生が答えを言いました。
「それは世間教です」
会場の多くの人がうなづいた納得の答えでした。
戦争が煽られる時代でも、平和ボケの時代でも、多くの日本人が変わらないのは世間の目を気にしながら、あるいは世間の多数意見に流されながら、言動を決めていることだと思います。
「みんなといっしょ」「普通」が居心地いい日本人。「赤信号 みんなで渡れば 怖くない」かもしれませんが、道徳を失って「みんながそうするから」の行動原理に陥ると、ヒットラー時代のドイツと同じように、隣人を裏切って売るような恐ろしい社会に突入する危険もあります。
迫害された斉藤宗次郎の生活
宗次郎は迫害を受け、家と仕事と娘を失ってもその土地に残り続け、新聞配達と牛乳配達で1日40キロ走ったそうです。その道のりで10メートル走っては神様に祈り感謝していたとか。そして子供に会えばアメ玉をあげ、仕事の合間に病気の人を見舞い励ましたそうです。
(新聞配達と牛乳…『銀河鉄道の夜』のジョバンニも新聞配達してましたね。届かない牛乳を母のために取りに行ってもいます)
斉藤宗次郎は、雨の日も風の日も、雪の日も炎天下でも、休むことなく町民のために働き、祈り続けたのですが、そんな彼は「でくのぼう」と言われていたんだそうです。
宮沢賢治が「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」と手帳に残した人物は宗次郎のような人だったというわけです。
宗次郎とは関連しませんが、「木偶の坊と呼ばれ、褒められもせず苦にもされない」者に対する賢治の仏教的心情を垣間見る一文が彼の童話『どんぐりと山猫』にも見られます。
どんぐりたちが ”誰が一番偉いか” を言い合ってもめているのを、山猫が裁断する話しなのですが、どんぐりたちはまさに「どんぐりの背比べ」をしているのでした。
その裁判を見守る少年がこう言います。
「そんなら、こう言いわたしたらいいでしょう。このなかでいちばんばかで、めちゃくちゃで、まるでなっていないようなのが、いちばんえらいとね。ぼくお説教できいたんです。」
(宮沢賢治作 『どんぐりと山猫』より)
偉さを競って、人間としてもっと大切な道徳や思いやりのことを見失っている人の方が、偉くないということだと私は思います。
また、どの神が一番という競いも、同じことが言えると私は思います。
嫉妬を一手に引き受けた名家の長男・宮沢賢治
賢治は町の名士で財のある家庭に育ち、成人後も陰ながら家の者たちに支えられていた面があるため、そこを揶揄する人は未だ消えません。
財力があり町の名士である父・宮澤政次郎には歯向かえずとも、その子供として最初に生まれた賢治は、幼少より表に出てこないイジメを受けただろうことは想像に難くありません。
その根本原因を考えた時、大人になった賢治が到達した思いこそが「世界全体が幸福にならない限り個人の幸福はありえない」という思想だったのではないでしょうか?
生存の基礎を握る食。それを支える農家の生活レベルを引き上げようと努力した賢治ですが、時にその農民から白い目で見られることもありました。道楽百姓と揶揄されたり、社会主義教育を疑われ警察にマークされたり、妹とし子を含め地元新聞で心ないことを書かれたりしたのです。
けれども賢治は、金と名声のためなら自分の中に思う正しさを曲げたり、自分を騙すということなどできなかった人なのだと思います。つまり”世間教”には追従しなかった人ということです。
不理解の雨と風があっても、全体の幸福を探し求めつづけられたのは、彼の心の中で消えていくことのなかった 「雨ニモマケズ」の中に書かれた“人としての理想の姿” があったからではないでしょうか。
愛した国に監視された賢治
ちなみに賢治が生きた時代、文壇の動きの中でどのような事件があったかというと、小林多喜二の特高警察による撲殺事件が挙げられます。
小林多喜二は『蟹工船』という小説を発表。これは、カニ漁を行ってそのまま船内で缶詰にする、言ってみれば缶詰工場付きの船の物語です。大海に閉ざされて限定された空間の中で、労働者と経営陣との構図が描かれていきます。
この物語は当時国民の間で大ブレイクしました。
労働闘争に拍車をかけかねないこの物語に難色を示した国家によって、小林多喜二は消されてしまいます。
ちなみに『蟹工船』は、社会主義共和国連邦だったソ連の映画『戦艦ポチョムキン』(1925年公開)と比較されることがあります。乳母車が階段を落ちていくスリリングな描写は、のちに幾つかのオマージュを生み出します。
賢治はこの映画を観ていたかもしれません。『銀河鉄道の夜』ではアメリカ大陸と思われる場所を通過した列車から、こんな光景が見えてきます。
向うとこっちの岸に星のかたちとつるはしを書いた旗がたっていました。
「あれ何の旗だろうね。」ジョバンニがやっとものを云いました。
「さあ、わからないねえ、地図にもないんだもの。鉄の舟がおいてあるねえ。」
「ああ。」
「橋を架けるとこじゃないんでしょうか。」女の子が云いました。
「あああれ工兵の旗だねえ。架橋演習をしてるんだ。けれど兵隊のかたちが見えないねえ。」
(宮沢賢治作 『銀河鉄道の夜』より)
何の旗かわからないし、地図にもない場所ですけれども…。
出来立ての共和国だったら認知度の低い旗だったかもしれませんし、地図にも記載がなかったかもしれませんね。
そしてもう今は存在していません。
ところで、戦争中はあらゆる手段で様々な組織にスパイが紛れ込む可能性がありました(本当は戦争中に限った話ではないでしょうが…)。宮沢賢治は社会主義教育を受けた者との疑いをかけられ特高警察にマークされていたため、自分に近づいてくる者に対して慎重に警戒しなければならなかったはずです。
相手がスパイでなくとも、ただ好意を持って近づいた人が特高の動きに巻き込まれることになっても困ります。宮沢賢治が、様々な異性との出会いがありながらも独身を通すことになったのは、このためではないかと私は考えています。
払った犠牲に見合う未来のために
微妙で緊張感漂う日本社会の中で、さんざんな迫害を受けながらもその地で生活した斉藤宗次郎は、師である内村鑑三に呼ばれて花巻を去ります。
その時、駅には町長をはじめ、町の有力者、学校の教師、生徒、神主、僧侶、一般人や物乞いにいたるまで、身動きがとれないほど人が集まったそうです。
雨の日も風の日も、毎日地域の人々のために尽くしたからこそ、別れとなった時には、宗次郎に対して親しみを感じていた人たちがハッキリと行動で敬意を示したのでしょうね。
駅長は停車時間を延長し、汽車がプラットホームを離れるまで徐行させるという配慮をしたとのこと。
花巻の駅に宗次郎を見送りに来た群衆の中には、宮沢賢治もいたそうです。
賢治は妹と同じように結核がもとで肺を傷め亡くなりましたが、死の寸前まで、農民の相談に乗っていたそうです。賢治は宗次郎のように皆に別れを告げることはなく病床の中でこの世を去りましたから、どれだけの人が彼を慕っていたかを彼自身がその目で確認する出来事もなかったことでしょう。
戦争のあらゆる形の犠牲者、差別と排除による犠牲者、病気による犠牲者…様々な犠牲を払って今のこの世界があるなら、これからの私たちが過去から学び取って未来に受け継ぐべきものは何でしょうか?
弟・宮澤清六に託された賢治の遺志
宮沢賢治の死後、賢治を慕う人たちが彼への敬意や親しみをあらゆる行動で示し続けていますね。その一番手はやはり何と言っても賢治の弟である宮澤清六さんではないでしょうか。
宮澤清六さんなくして今日のように宮沢賢治が知られることはなかっただろうと思います。清六氏もある意味「ホメラレモセズ クニモサレズ」ではないでしょうか。
賢治が嫌がり自責の念になっていた家業の質屋を、全く別の事業に転換できたのも宮澤清六さんあってのものでした。
書いた原稿の全てを、父親には「迷いのあと」と言い、弟にその原稿を託して宮沢賢治はこの世を去りました。
原稿は大切に保管され、戦時中に大火災があれば、弟の清六氏は原稿の入ったカバンを防空壕の中でしっかり抱きしめて守り抜いたそうです。
生前に二冊の本を出したものの、ほとんど売れなかった宮沢賢治ですが、弟の清六氏が遺志を引き継いでくれたおかげで、戦火を免れた原稿の多くが私たちの元にシェアされ、今ではたくさんのファンがいます。
そして、現在は清六さんの孫である宮澤和樹さんがファンのための拠り所を作っています。
私は、宮沢賢治さんの魂にそのことが届いていることを願う一人です。
【2018/11/07 補足追加】宮沢賢治の多くの作品が人々に認知されるようになったきっかけについては、弟の清六氏だけではなく、1939年に『宮沢賢治名作選』を出版した松田甚次郎という方にも是非目を向けていただきたいです。
宮沢賢治の「雨ニモマケズ」は、原稿用紙ではなく個人的な手帳に記されていたものです。それは宮沢賢治が過酷な時代を生き抜く上で、自分の心に確認すべき目標として書いたものだったのではと、私は思います。
「雨ニモマケズ」の人物像は、きっと斉藤宗次郎だけではなく宮沢賢治が知った様々な人の良い部分が抽出されたものなのではないでしょうか?
その個人的手記が公開されたことの意義は、宮沢賢治の平和希求への願いが多くの人々にバトンタッチされていくことだと私は思います。
おわりに
- 「雨ニモマケズ」には「何事も体が資本」の意識がある。
- 宗教を間違って用いると、人々に唯一の神をめぐる争いと不幸を生む。
- 斉藤宗次郎と宮沢賢治は愛と平和を強く願った。
- 「雨ニモマケズ」には戦争時代を生きた人々の平和への願いが込められている
私が思うに完璧な宗教も、完璧な人間もいないと思います。どの宗教も良いところもあれば疑問な部分も混在しているものだと思います。斉藤宗次郎はキリスト教の良い点に目を向けて、その部分を自分なりに愛の行動へ移していった人なのではないかと思います。
宗教を利用した商売や支配や戦争がなかったら、斉藤宗次郎はただ普通に自分の信じる神を信じて平和に暮らしていけたのかもしれません。
もしかすると『雨ニモマケズ』の中の「ジブンヲカンジョウニイレズニ」とは「私だけを」と要求するような類の神へのアンサーが込められていたりするかもしれないと、ちょっと思いました。
人間にはいろんな「欲」があります。私は「欲」は大事なものだと思っています。生きる上で絶対に必要なものだと思っています。しかし、この「欲」が自己中心的で汚れた時、貪欲な「煩悩」へと変化していくのだと思います。
大晦日の夜、お寺で除夜の鐘が108回鳴らされるのは、人間が持つ108つの煩悩を減ずるためだと言われます。この108つの煩悩がどんなものか、私はまだ勉強していませんが、宮沢賢治が「雨ニモマケズ」の中で書いた「欲」とは、きっと他者を顧みない自己中心的な欲のことだろうと私は思います。
それが無くなれば、この世から喧嘩や訴訟も戦争も無くなるのかもしれませんね。
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