今回の記事は、宮沢賢治の童話や、ミヒャエルエンデの児童文学や、エンリケ・バリオスのアミ三部作などから、私が持った疑問「なぜ児童文学なのか?」ということが主題です。
のっけに1つの大きな理由となるものをあげたいと思います。
「子どもの童話のように、おとぎ話のように書くんだ……そうでないと人はみな君をうそつきか頭がおかしいんだと思うよ。それに子どもに向けて書くべきだ。ー以下略ー」(エンリケ・バリオス著 『アミ 小さな宇宙人』より)
ベストセラーになった『アミ 小さな宇宙人』は、地球の少年が宇宙人と交流するお話しなのですが…
作者はエンリケ・バリオスという成人男性。しかし10歳くらいの少年が書いたおとぎ話という設定で書かれています。
この設定のウラを考えるだけで楽しいですよね。
10代の少年の本当の体験を、大人が代筆したかもしれないし…
大人の作者本人が体験したことを、10代少年の体験記というおとぎ話に変換したのかもしれないし…
実は妄想100%なんだけど、妄想話にいかにも真実が隠れているかのように仕掛けたのかもしれないし…
実は私、リアルの生活の中でUFOを見たことと幽霊体験をしたことがあります。大槻教授や上岡龍太郎みたいなタイプの人がいる所で、こういう話をしようものなら、きっとこっぴどい反論を受けたりするのかもですね(^o^)
知り合いにも不思議な体験をしたことのある方が何人かいらっしゃいますが、そういう人たちと話をすると、実体験としての共感があるから盛り上がったりします。
そういえば『銀河鉄道の夜』他たくさんの童話を残した宮沢賢治さんは、野宿の際に何かを担いで川端を駆け下りていくお坊さんの霊を目撃したり、座敷童子の話で盛り上がったりした方なんだそうです。
私は他人の不思議体験について「絶対真実だ」とか「絶対ウソだ」とか決めることはできませんが、自分が不思議体験しちゃっているので、少なくとも「絶対ウソだ」と否定するタイプではありません。
こういうたぐいのことで一番厄介なのは、体験したことを「実際に体験したのだ!」と証明できないことが多いということ。
予期することなく突然にUFOだの霊だのと遭遇したり、説明しようのない不思議な体験に遭遇した時、カメラやビデオを事前から構えているわけではないですからね。
もしカメラで撮影できたとして、写っていなかった場合は、それはそれでさらに怖すぎるし、なおさら体験者の立場は悪くなるばかり。
証拠は? 誰が? どこで? 何時何分?
にわかに信じがたい不思議体験を語る人の中には、明らかに頭がおかしい人も混じっているので、なおさら
“人はみな君をうそつきか頭がおかしいんだと思うよ”
ということにされてしまいそうです。
↓こんな言葉もあります
常識とは、十八歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう(アルバート・アインシュタイン)
18年間の日常生活の中で、その人の中に定着していく “常識” というものは、そこから離れたことを素直に受け取りにくくさせるものだと思います。
そうすると、ある特定のコミュニティの中で強固に “常識” とされるものに反する内容を書かなければならない場合は、その常識にまだ染まりきっていない子どもに向けて書いた方が受け入れられる可能性が高い…
と、考えることもできますね。
↓それから、こんな言葉もあります
すべての物理学の理論は、数式は別にして、「子どもでさえも理解できるように」簡単に説明すべきである。(アルバート・アインシュタイン)
要は “猿でもわかる” みたいなことですよね。
子どもと猿を一緒にするか
”多くの人に理解してもらうには、子どもでもわかるように簡単に”という意図もあるかもしれません。
しかし、そういうこととは全く別方向の目的もあるのではないかと…。
それは…
それは…
また今度ね〜❤️
TO BE CONTINUE !
飛べ コンティニュー! って何?
TO BE TO BE TEN MADE TO DO K!
飛べ飛べ 天までとどけー!
今日は「海の日」です!
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