前記事の続きです
『銀河鉄道の夜』(ブルカニロ博士登場版)とミヒャエル・エンデの『モモ』
紀元前一千年。だいぶ地理も歴史も變つてるだらう。このときには斯うなのだ。變な顏してはいけない。ぼくたちはぼくたちのからだだつて考へだつて、天の川だつて汽車だつて歴史だつて、たださう感じてゐるだけなんだから
宮沢賢治 著 『銀河鉄道の夜』(旧版)より
宮沢賢治作『銀河鉄道の夜』(旧版)に登場するブルカニロ博士のセリフです。
私には「その通りだ」と思えたり「それが全てでもない」と思えたり、なんとも複雑な感覚になる言葉です。
確かに大昔には、世界は平たい円板状で海の果ては大きな滝だと信じられていた時代があります。歴史の多くは戦争で勝った側や支配層に都合の良いように記録され、力のあるものにとって都合の悪いものは消されたりもしていそうです。
歴史も科学も、常に新しい発見があって、定説が覆されたりしてますね。
別の本で、こういうのもあります
“想像と現実を混同するのはよくないことだ”。でもアミは “人はみな、一人ひとりが自分の想像しうる世界の中に住んでいる”と言った。
エンリケ・バリオス著 『戻ってきたアミ 小さな宇宙人』
まんが『ぼのぼの』では、想像力たくましいぼのぼのちゃんが自分で勝手にこわい想像をして、ボロボロ泣いたりしましたっけ(^o^)
「ジョバンニ、お父さんから、らっこの上着が来るよ。」
(宮沢賢治作 『銀河鉄道の夜』より)
では前記事の続きです。
アインシュタインは全宇宙の真理にたどり着こうとして、羊飼いの少年から何を聞き出したのでしょうか?
その答えはこの動画の中にあります。
前記事で触れた『モモ』の作者ミヒャエル・エンデも出ていますね。
私はこの番組のラストに静かな感動を覚え、しばらく呆然としていた思い出があります。
アインシュタインがたどり着いた答えは動画を見ていただくとして、ここで一つ大きな議論の焦点になっているのが、マクロとミクロの世界の法則の違いです。
量子力学のミクロの世界では、目に見えるマクロの世界では説明のつかない問題があるようなのです。
人が観測しているかしていないかで結果が変わってくるなんていう、ちょっと常識的には信じがたいことが起きているというのです。この理屈に従うと、月は「人が見ている時だけそこに存在する」という奇妙な理屈が展開されのです。
だからアインシュタインは「私が見ていなくても、月はそこにあるはずだ」と反発していました。私もアインシュタインと同じ気持ちです。
量子力学の「それ、なんかおかしくない?」を、目に見えるマクロの物質と連動させた思考実験として、有名な ”シュレディンガーの猫” というものがあります。
シュレディンガーの猫の話の流れを分かりやすく解説。量子の世界の不可思議な話
ブログ「アタリマエ!」より
さて、この世界を構成している最も小さなものはいったい何でしょうね?
ヒッグス粒子が発見されたら、その先には何が待っているのでしょうね?
それを科学はつきとめることができるのでしょうか?
↓このようにものすごい巨大な地下装置によって観察実験されているんですね。
突然、突拍子もないことを言うように思われるかもしれませんが、人の心はどこにどう存在するのでしょうね?
脳や神経の微弱電流の集積だと片付けてしまう人もいるでしょうが、その電気回路を通して認識している「私」とか「意識」は、死んで回路が止まったら、そのあとは跡形もなく消えてしまうのでしょうか?
もしも今の科学でも解明できていないミクロの素粒子の中に、何かのエネルギーとして残り続けるものがあったとしたら…
もしも、そんなことがこれから先の科学で証明されるようなことでもあったなら、その時は科学と宗教が大昔のように仲良く同じ真理追究の下に手をつなぎ合える日が来るのかもしれませんね。
おまへは化学をならったらう。水は酸素と水素からできてゐるといふことを知ってゐる。いまはだれだってそれを疑やしない。実験して見るとほんたうにさうなんだから。けれども昔はそれを水銀と塩でできてゐると云ったり、水銀と硫黄でできてゐると云ったりいろいろ議論したのだ。みんながめいめいじぶんの神さまがほんたうの神さまだといふだらう。けれどもお互ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだらう。それからぼくたちの心がいゝとかわるいとか議論するだらう。そして勝負がつかないだらう。けれどももしおまへがほんたうに勉強して実験でちゃんとほんたうの考とうその考とを分けてしまへばその実験の方法さへきまればもう信仰も化学と同じやうになる。
(宮沢賢治作 『銀河鉄道の夜』旧版より)
それで思うのですが、人間に限らずあらゆる生き物が生きる中で、様々な感情や思考が物質や空間に刻み残されたり影響を与えたりすることがあるとしたら、なるべくなら悲しみや苦しみを増幅せず減らし、喜びと幸福が広がっていくようにしたいものだと思いました。
ちなみに宮沢賢治は一時期菜食主義の生活をしていたようです。食べられる生き物がかわいそうだと考えていました。
『アミ 小さな宇宙人』でも「よく死骸が食べられるもんだ!」なんて書かれてます。
まぁ、私はというと肉も魚も食べますけれど…。
ただ、本当は動物の肉を食べなくても健康的に生きていけるようであることは知っていますし、玄米菜食でマッチョな人たちがいるのも知ってびっくりしてます。
もし現代科学の中で宮沢賢治が生きていたら、もっと彼の理想は現実化できて、しかも長生きできたのかもしれないと思ったりします。
宮沢賢治が下書きして完成しなかったものを「朝日評論」の校訂・再構成によって発表に至った『生徒諸君に寄せる』という文章があります。
その中の一部を抜粋します
宙宇は絶えずわれらによって変化する
誰が誰よりどうだとか
誰の仕事がどうしたとか
そんなことを言ってゐるひまがあるか新たな詩人よ
雲から光から嵐から
透明なエネルギーを得て
人と地球によるべき形を暗示せよ新しい時代のコペルニクスよ
余りに重苦しい重力の法則から
この銀河系を解き放て
私にはいろんなことがつながりをもって感じられます。
「黙って十年間、誰が何と言おうと、実行し続けてくれ。」と賢治の指導を受けて成果を出した松田甚次郎という方がいます。
宇宙が壮大でとりとめがないように、宮沢賢治ひとりを追ってみても、そこに広がる想念の宇宙は広大で簡単にはまとめようもありません。
宮沢賢治に関しては、まだまだ話は尽きません。
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