なぜ児童文学なのか? その4

芸術

前記事の続きです

なぜ児童文学なのか? その3
前記事の続きです ミヒャエル・エンデ作『モモ』でマイスター・ホラがモモに出したなぞなぞは、この物語で「時間」がひとつのテーマになっていることに気がつけば、解くのは意外と簡単です。 ですが、このなぞなぞに触れた時、その答えが “この世界の偉大な支配者” “この世界そのもの” という考えに出会った時、なんとも言えない気持ちになりました。 モモ 時間どろぼう...

 

 毎日、毎日、ラジオもテレビも新聞も、時間のかからない新しい文明の利器の良さを強調し、ほめたたえました。こういう文明の利器こそ、人間が将来「ほんとうの生活」ができるようになるための時間のゆとりを生んでくれる、というのです。ビルの壁面にも、広告塔にも、ありとあらゆるバラ色の未来を描いたポスターがはりつけられました。絵の下には、次のような電光文字がかがやいていました。

 時間節約こそ幸福への道!
あるいは
 時間節約をしてこそ未来がある!
あるいは
 きみの生活をゆたかにするためにーーー
  時間を節約しよう!
けれども、現実はこれとはまるきりちがいました。

(ミヒャエル・エンデ作『モモ』より)

なんで現実はまるきり違うのかな?

灰色の男たちが、インチキで人をまるめこむ計算を広めたからです。

みんな忙しくなって、円形劇場跡の広場に暮らすモモを訪ねる友達も減っていくの。

新しい子どもたちが来るようになったけど、遊び方がよくわからない子たちだったわね。

 

モモの大親友で、作り話が大好きな観光ガイドのジジも、何かおかしなことが起き始めていると感じていました。

 「ねぇ、ジジ、なにかお話して!」と、新しい子のひとりがせがみました。
「そうだ、それがいい!」とほかの子どもたちもさけびました。「ゆかいな話がいいや!ーーーちがうよ、こわい話がいいよ!ーーーいやよ、おとぎ話にして!ーーー冒険物語だ!」
けれどジジは話す気になれませんでした。こんなことははじめてです。
「それよりかね、」と、ジジは言い出しました。「みんなの話を聞きたいよーーーおまえたちのこと、うちのこと、おまえたちがどうしてこんなふうなのか、なぜここに来るのかってことを話してくれないか?」
子どもたちはだまりこくりました。どの顔もきゅうにくらくなり、よそよそしくなりました。
そのうちにやっとひとりの声があがりました。
「うちじゃ、すごくりっぱな自動車を買ったんだ。土曜日には、パパとママがひまだと、自動車を洗うんだ。いい子にしてると、ぼくも手伝わせてもらえるんだよ。大きくなったら、ぼくもじぶんの自動車を買いたいな。」
「あたしはね、」と、小さな女の子が言いました。「行きたければ毎日でも映画に行かしてもらえるわ。うちの人はみんないそがしいから、そのかわりに映画を見るお金をくれるの。」
しばらく口をつぐんだあと、その子がつけ足しました。
「でも、そんなのはいやなの。だからあたし、ないしょでここに来て

(中略)

「ぼくの親はぼくをだいじに思ってるよ。でも、いそがしいんだ、どうしようもないじゃないか。ひまがないんだもの。そのかわりに、ぼくにトランジスター・ラジオまで買ってくれたんだよ。とっても高いんだぜ。だから、これがいい証拠じゃないかーーーそれとも、ちがうかい?」
みんな、だまりこみました。
するととつぜん、きょうの午後じゅうみんなの遊びのじゃまばかりしていたはじめての男の子が、しくしく泣きだしました。いっしょうけんめいに泣くのをこらえて、泥だらけのにぎりこぶしで目をこするのですが、涙はとめどなく流れて、よごれたほっぺたに二本のすじをつけました。
ほかの子どもたちも、なん人かは身につまされたようにその子をながめ、なん人かは地面に目を落としました。みんなその子の気持ちがよくわかったのです。ほんとうは、みんなおなじように泣きたい気持ちでした。だれもが、じぶんが見はなされた子どもだと感じていたのです。

(ミヒャエル・エンデ作『モモ』より)

 

便利になって、いろんなものを買えても、幸せじゃなかったのね。

『モモ』のこのくだりのあとに、決まったセリフしか喋らない人形を灰色の男が置いていったじゃない。決まったセリフしか言わないから、モモはその人形と会話をふくらませることができなかったでしょ

『モモ』の物語が書かれた頃より、今はもっと技術が発達しているので、そういうものがたくさんあふれているわね。

うちの子なんて家族なんか見向きもしないでゲームばっかりしてるけど。ゲーム買うてってねだったのも子どもの方やからね。「みんな持ってる」とか言うて

友達と集まってても、みんながスマホばかり見てるなんてこともあるね。

スマホ依存とかゲーム依存とかあるんやてよ。脳の発達障害があったり、体の成長が遅れたり、攻撃的になったり…

『モモ』に書いてあった ”きょうの午後じゅうみんなの遊びのじゃまばかりしていたはじめての男の子” というのが、それに近いと思いますね。

ゲームやスマホはユーザー同士でちゃんと会話出来るじゃねぇか。

都合のいい時だけやないの。無視したければ簡単に無視できるやない。

バカは相手にするだけ時間の無駄だからな。

バカって言ったほうがバカって話もあるけど

その本に書かれているような、他人を見下して万能感に浸る人は若者に限らず大人にもたくさんいますね。

こんな本もあるのよ

嫉妬社会・日本では、能力ある本来なら出世してほしい人が、多くのアホに結託され、途中で足を引っ張られ、引きずり下ろされてしまいがちだ。

だから、バカやアホは相手にするだけ無駄なんだよ。バカは死ななきゃ治らないって言うだろ。

その理屈をバカや悪者が言っていることもあるから厄介なのよ。どちらにしても、『モモ』の物語で描かれているのは、文明の利器と言われるものが人々を幸福にするどころか、人々を分断して幸せから遠ざけているってことなんじゃない?

そうね… モモはこのあとひどい孤独な思いをするのよね。

TO BE CONTINUE !

 

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なぜ児童文学なのか? その5
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